平穏な昼下がりを、誰かの悲鳴が引き裂いた。
「メルヒェンだ! メルヒェンが来たぞ!」
解放地区のバリケードを突破して、何匹ものメルヒェンがなだれ込んできた。突然の襲撃に人々は虚を突かれ、混乱して逃げ惑う。
「あっ!」
小さな男の子が、つまずいて転んだ。
一匹のメルヒェンが近づいていく。男の子は泣き叫ぶが、大人たちはメルヒェンを恐れて助けに行くことができない。
そしてついに、メルヒェンの手が男の子の頭を――
「やめときな」
――掴もうとした瞬間、突然その手が燃え上がった。
『ギャッ!?』
驚いて後ずさるメルヒェン。炎を振り払って再び前を見ると、いつの間にか男の子を守るようにゆらりと立ちはだかる人影がある。
年の頃なら十代前半。燃える炎の色をした赤い髪をなびかせ、その手になぜかマッチ棒を持った、小柄な少女だった。
「さっさと逃げな、坊や」
「う、うん……お姉ちゃん、ありがとう!」
礼を言いながら、男の子は走って逃げる。
「ああっ、危ない!」
誰かが叫ぶ。男の子を見守っていた少女の無防備な背中に、メルヒェンが鋭い爪を振り下ろしたのだ。
その爪が、少女を切り裂いた。
赤い血が噴き出す――かと思いきや。
切り裂かれたはずの少女の体が、霧のように揺らめき、消えた。
「陽炎だ」
『ギャウッ!?』
声のする方にメルヒェンが振り向くと、そこには傷一つ負っていない少女の姿。
少女は顔の前にマッチ棒を掲げ、ニヤリと笑う。
「俺の能力『一度の火遊び〈リトル・マッチ・ガール〉』は、擦ったマッチが燃えている間だけ好きな幻覚を作り出すことが出来る。お前がヤったと思い込んでたのは、俺の幻だったってわけさ……」
『グゥゥ……』
ただならぬ少女の雰囲気に、メルヒェンは警戒を強める。すると異変を感じ取ったのか他のメルヒェンも集まってきて、一斉に少女に襲いかかった。
「力の差も分からないか、哀れな化け物め……まとめて灰になるがいい!」
そして炎の少女は、指の間に挟んだ複数のマッチ棒に一度に火をつけ、それをメルヒェンの集団に投げつけた。
「降魔炎獄陣!」
『グギャアアアアアッ!』
一本一本のマッチから巨大な火柱が巻き起こり、炎の舌がメルヒェンたちを舐めるように焼き尽くしていく。
生き残ったのは、一番大きなメルヒェンただ一体だけだった。
少女は、さらに一本のマッチを擦り。
「ほら……最高にキメられる一本だぞ」
ぴん、と。
指先ではじかれたマッチの火が、メルヒェンを呑み込み燃え上がった。
◯
――そこで、マッチの火が、消えた。
「あー……消えちまった……」
解放地区の一角。人通りの少ない路地の隅に、少女は燃え尽きたマッチ棒を投げ捨てた。
名残惜しそうに燃えかすを見つめながら、だんだんとその口元がニヤけていく。
(それにしても、今回の妄想は我ながらクオリティ高かったな……「降魔炎獄陣!」って、あーやべぇ、かっこよすぎだろ俺……)
「うへ、うへへ、うへへへへへ……」
不気味な笑い声をもらす少女。ヨダレさえたらしそうな勢いだ。
(――おっと。またトリップしちまった。一応今日もノルマこなしとくか……)
我に帰った少女は路地を出て、人が集まる広場へ向かう。
そして道行く人々へ、おそるおそる声をかけた。
「あ……あの~……マ、マッチ、いりませんか……なんて、へへ……」
何人もの人が、少女の側を通り過ぎる。普通に考えれば、姿も見えているし声も聞こえているはずだ。
「す、すす、すみません……マッチを……」
だがいつものように、誰一人として少女には見向きもしなかった。
(……はは)
(分かってるよ。俺の現実はこっちだってな)
道行く人は誰も少女に気づかない。もちろんマッチを買ってなどくれない。まるで、誰も彼女に気づいてはいけないと決められているかのように。
その異常な存在感の無さは、彼女を完全に世界から孤立させていた。
(まぁいいけどな。俺にはこのマッチさえあれば)
陽炎など操れない。降魔炎獄陣など使えない。
ただ、マッチを擦れば好きな幻覚が見られることだけは、本当だった。
少女はすっかりその孤独を受け入れていた。強がりや負け惜しみではなく、自分一人で妄想の中に生きていけるその孤独を、愛してさえもいた。
(さぁ、明日はどんな妄想で楽しもうかな……ぐへ、ぐへへ……)
◯
物語には、登場人物がいる。
そして登場人物には、名前がある。
ただし、脇役やただの群衆には名前がない。
そういった『名前のない登場人物』に、物語を動かす力はない。
しかしごくまれに、『名前のない主人公』が存在する。
名前のない主人公に、果たして物語を動かす力はあるのか?
彼女の場合は、その力がなかった。
名前を持たないがゆえに、ただ運命に従うだけ。
物語のために動かされ、死ぬためだけの主人公。
マッチ売りの少女。
彼女は本来、そんな登場人物のはずだった。